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TOPページ>イベント・観光物産情報メニュー>五所川原市の文化・史跡案内 五所川原市の文化・史跡案内
旧金木町は、文豪「太宰治」が生まれたまちです。 古代の陶質土器である須恵器(すえき)の窯跡が前田野目川流域で38ヶ所も発見されています。当窯跡もその一つで、10世紀前後のものと考えられています。ここでは専業の工人集団による生産を行い、供給先は北海道オホーツク海側まで及ぶ一大生産地であったことが窺えます。
沈鐘の伝説で有名な梵鐘は正徳6年(1716年)に京都で鋳造、十三湊を経て当寺に達しました。寛政年間の大砲鋳造や太平洋戦争の金属回収、あるいは火災等による存続の危機を乗り越え、人々に護られ続け、今は青森県指定の文化財となっています。
代々津軽藩広田組代官所の手代を務めた平山家の住居として造られたもので、既に2百年以上を経た当地方最古の建造物です。津軽地方の上層農民が生活した当時の姿を保つ極めて貴重な資料とされ、主屋と表門は重要文化財に指定されています。この表門は、津軽藩に対する功労により許されたものです。 津軽地方を代表する大型民家である楠美家住宅。後世に長く保存・伝承するため平成12年11月2日に五所川原市有形文化財(建造物)に指定し、同時に広く市内外の人々に公開するため平成18年5月に高野字北原222番地より狼野長根公園へ移築。平成19年4月27日に開館しました。
観音林遺跡からの出土品、当市の歴史・文化・産業の資料を収集。特に須恵器(すえき)の関連資料を多数展示・保管しています。
資料館には、歴史、文化、産業の移りを知る民俗資料など、貴重な資料を展示しています。
中の島ブリッジパーク」内にある資料館。中世港湾都市である十三湊についての貴重な資料を展示しています。 ■ 蘇る中世都市 十三湊 1.国史跡・十三湊遺跡 十三湊遺跡は『廻船式目(かいせんしきもく)』に記録される「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに数え挙げられ、中世に始まる典型的な港湾都市のひとつです。全国的にみても北日本屈指の大規模に整備された港町であり、日本海を舞台に北方交易の玄関口として、西の博多に対比されるような国際港として日本史上極めて重要な意味をもつ遺跡です。また、室町時代には「日之本将軍(ひのもとしょうぐん)」と呼ばれた蝦夷(えみし)の系譜を引く在地豪族、安藤氏の嫡流が十三湊に本拠を置き、若狭国小浜の羽賀寺(はがじ)を再建するなど、北は北海道から南は若狭に至る日本海一帯を広大な活動範囲としていました。このように十三湊遺跡は日本中世史を解明する上で極めて重要な遺跡であり、平成3〜5年度の国立歴史民俗博物館の調査以来、県内外からの早期の遺跡解明の期待もあって、平成6年度から旧市浦村(五所川原市)が,平成7年度からは青森県教育委員会が十三湊遺跡の発掘調査に着手し、遺跡の実態解明と国史跡指定を目指した取り組みを行なってきました。 その結果、平成17年5月20日に国の文化財保護審議会が文部科学大臣に史跡指定答申をし、同年7月14日に十三湊遺跡が国史跡指定となりました。 2.十三湊遺跡史跡指定の要項 名 称: 十三湊遺跡(とさみなといせき) 所在地: 青森県五所川原市十三地内 面 積: 234,193.69u(昭和56年、国土調査実施済み) 港湾施設地区 39,875.20u 町屋・武家屋敷・領主館地区 140,424.51u 檀林寺跡地区 53,893.98u 所有関係の概要: 県有地 2,529.19u 市有地 32,613.91u 民有地 198,636.59u 境内地 414.00u 3.十三湊遺跡の指定範囲と文化財の内容 発掘調査の成果に基づいて,史跡指定の範囲を次ぎの3地区に定めています。
<港湾施設地区> ○文化財の内容
<町屋・武家屋敷・領主館地区> ○文化財の内容
<檀林寺跡地区> 十三湊遺跡の南端,県道に面した場所に位置する住宅地や工場が所在する地区です。 一帯は檀林寺跡と伝えられる寺院跡が存在する地域です。 ○文化財の内容
4.十三湊遺跡と安藤氏について a)はじめに 本州最北端の青森県、日本海側に面した津軽半島の西北部に位置する五所川原市十三(じゅうさん)地区は、岩木川の河口に広がる十三湖のヤマトシジミが特産の静かなところです。 中世には蝦夷の系譜を引く在地の豪族、津軽安藤氏の嫡流が十三湖西岸の十三湊に根拠を築き、日本海交易の飛躍的な発達にともなって、北方交易の拠点ターミナルとして繁栄を極めた土地であることが知られています。これまで十三湊は興国元年(1340年)の地震による大津波によって一瞬のうちに壊滅したという伝説が信じられてきました。しかし、近年の発掘調査によって、遺跡の残りが非常に良く、15世紀中頃に遺跡が衰退・廃絶していることが判明しました。これは南部氏の十三湊攻撃によって、安藤氏が北海道へ逃げていったとする文献史料の記述と符号することが明らかとなっています。 十三湊遺跡の発掘調査は平成3〜5年に国立歴史民俗博物館の調査以来、平成6年度からは旧市浦村(五所川原市)、平成7年度からは青森県教育委員会が調査に着手し、現在まで継続して発掘調査が行われ、大規模な港湾都市の実態が明らかとなってきました。また、発掘調査ではそのつど新しい発見があり、十三湊の解明によって、日本海交易の実態や北海道を含めた東北の中世史をより鮮明に描き出すことができるようになってきました。 b)十三湊とは? 青森県五所川原市の岩木川の河口に広がる十三湖は、日本海に通じ、海水と淡水が混じりあった汽水湖です。この湖の西岸、日本海側に細く半島状に突き出た砂洲に十三湊遺跡があります。 戦国時代までに成立したとされる「廻船式目(かいせんしきもく)」の中に「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして登場する「奥州津軽十三湊」は、中世後期における北日本の重要な港湾拠点として、広く知られていました。いまは「ジュウサン」と読みますが、江戸時代後期まで「とさ」と読んでいました。「とさ」の語源はアイヌ語の「ト・サム(湖沼・のほとり)」であるという説が有力ですが、定かではありません。 十三湊は近年の発掘調査によって、鎌倉時代以降に成立した湊町であることが判明しました。初期の湊町は日本海へ通じる水路であった「前潟」一帯に形成されていきました。前潟一帯はかつての船着場であり、海運や水運など港湾関係の業務に携わる人々が活動する場所だったのです。以前まで、十三湊の成立は12世紀後半(平安時代後期)とされ、岩手県平泉に勢力を有していた奥州藤原氏の北方交易の拠点湊が十三湊ではないかとみられていましたが、現在では否定的な見解が多く、奥州藤原氏の北方交易の拠点湊は奥州を南北に貫く幹線道路であった奥大道(おくたいどう)の終着点、外ヶ浜(そとがはま)(陸奥湾の西岸一帯)であったとみられています。 十三湊の最盛期は、南北朝・室町時代の14世紀後半から15世紀前葉にあたります。この時期は日本海交易の発達による安藤氏の支配のもと、十三湊は西の博多に匹敵する本州最北端の北方交易の拠点ターミナルとして繁栄を極めました。現在、十三地区の人口はおよそ800人ですが、当時はその何十倍もの人がここで生活していたことでしょう。 c)十三湊と安藤氏 十三湊に拠点を置き、北方世界を支配した安藤氏は、自らの祖を前九年の役(1051〜1062年)で朝廷側の源頼義と戦った北方の勇者、安部貞任の末裔とし、「安倍」を本姓としています。つまり、自らをエミシのリーダーとする特異な系譜を表明し、北方世界を支配する正当性を強調しようとしています。 安藤氏が歴史上に登場するのは鎌倉時代の初めです。安藤五郎が北条義時の代官として、「東夷ノ堅メ」のために津軽に置いたのが始めであるとする『保暦間記(ほうりゃくかんき)』の記録があります。鎌倉幕府執権の北条義時が津軽地方を含めた陸奥国最北部の地頭となり、エゾを取り仕切る立場に付きました。その時、津軽の豪族で新たに従者となったエミシ出身の安藤五郎を起用してエゾ支配を任せ、日本国の東の境界一帯を支配していきました。 一方この頃、北方世界では元朝がアムール川流域に「東征元帥府(とうせいげんすいふ)」を設置し、北東アジア地域の少数民族を朝貢貿易による支配体制を押し進めていました。1264年、吉里迷(ギレミ、今のニブフ民族)からクイ(アイヌ)が境界線を侵して困るとの訴えがあり、元(モンゴル軍)がクイ(アイヌ)を征討する事件が起きています。 アイヌは交易民であり、交易品の入手を目的にサハリン(樺太)に北上・進出したのですが、元朝のクイ(アイヌ)征討によって阻止されてしまったのです。 この事件が日本国の東の境界地域にも影響を与える結果となり、1275(建治元)年、エゾ(アイヌ)が蜂起する事件が起き、鎮圧にあたった「蝦夷沙汰代官(えぞさただいかん)」の安藤五郎が逆に首を取られる事件が起きています。 エゾの反乱はやがて陸奥国から出羽国にも拡大し、さらに「蝦夷沙汰代官」である安藤一族内部の対立・抗争を引き起こすことになります。元亨2年(1322)以来、殺された安藤五郎の跡目を誰が相続するのかの問題を巡って従兄弟同士の又太郎季長(すえなが)と五郎三郎季久(すえひさ)が争いました。双方は外ヶ浜内真部(うちまっぺ)(青森市内真部)と西浜の折曽関(おりそのせき)(深浦町関)にそれぞれ城郭を構え、大河(岩木川)を挟んで戦いを繰り広げたのです。驚いた鎌倉幕府は「蝦夷沙汰代官」を季長から季久に交代させ、関東から二度に渡って大軍を送り込み、1328(嘉暦3)年にようやく和議にこぎつけ、戦乱を収めました。これが、津軽の大乱或いは安藤氏の乱といわれる戦いで、鎌倉幕府崩壊の要因の一つになったのです。これ以降、戦いに勝利した季久は「宗季(むねすえ)」と改名し、日本海交易の発展とともに西浜のある十三湊に拠点を移していったと考えられます。 d)環日本海交易と十三湊 室町幕府の歴史書『後鑑(のちかがみ)』には、1423(応永30)年に安藤陸奥守(安藤盛季(もりすえ)とみられる)が室町幕府5代将軍、足利義量(よしかず)の将軍就任祝いに「馬20匹、鵞眼(ががん)(銭)2万枚、海虎皮30枚、昆布500把」を献上したという記録があります。なかでもラッコの皮や昆布は蝦夷(えぞ)の特産品であり、安藤氏の経済基盤が北方交易にあったことを象徴的に示しています。 蝦夷との交易では、蝦夷(アイヌ)の人々が直接十三湊に入港したのではなく、北海道南部(道南地域)に「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」をはじめとする和人の館が形成され、館内において蝦夷との交易が行なわれていました。ちなみに「道南十二館」の一つ、函館市志苔館跡(しのりたてあと)は室町時代に記された『庭訓往来(ていきんおうらい)』に登場する北方特産物、「宇賀昆布(うがこんぶ)」の産地としても有名で、館内で和人と蝦夷(アイヌ)の間で昆布などの交易を行っていたものと思われます。 また、館主の多くが安藤氏の一族や安藤氏の諱の一字「季」を用いており、安藤氏の一族や被官であったことがわかっています。室町時代の北海道南部(蝦夷が島)は安藤氏の本拠、津軽十三湊を介して北陸若狭から京都へ通じる北方産品の物資供給地でした。 一方、十三湊の発掘調査からは青磁や白磁などの貿易陶磁器のほか、国内では愛知県瀬戸焼(せとやき)や福井県越前焼(えちぜんやき)、石川県能登半島産の珠洲焼(すずやき)など多量の陶磁器が出土しており、日本海を舞台とした交易ルートが築かれていたことが分かります。 日本海交易の発達とともに、安藤氏は経営基盤を北方交易に求め、莫大な利益を得ていましたが、やがて15世紀前半には糠部(ぬかのべ)(青森県東部)の南部氏が台頭し、津軽地域に進出して安藤氏の権益を侵すようになっていきました。 e)日之本将軍の落日 室町時代の15世紀前半、急速に台頭してきた南部氏は日本海交易によって隆盛を誇る十三湊安藤氏を猛然と攻めます。そして、1432(永享4)年、ついに安藤氏は戦いに敗れ、蝦夷が島(北海道)に逃れるという事件が起きました(『満済准后日記(まんさんじゅごうにっき)』)。しかし、この時は室町幕府による和睦命令が出され、安藤氏は再び十三湊に戻ることができました。この時、安藤氏の当主であった康季(やすすえ)は、この後の1436〜1447(永享8〜文安4)年にかけて、後花園(ごはなぞの)天皇の勅命を受けて、若狭国羽賀寺(はがじ)の再建事業のために莫大なお金を寄進して「奥州十三湊日之本将軍(おうしゅうとさみなとひのもとしょうぐん)」の名声を得ています。この時期、安藤氏は南部氏との抗争を背景に天皇家や室町幕府と密接な関係を強めていこうとしました。しかし、これは十三湊安藤氏の歴史のなかで最後にみせた輝きでした。 1442(嘉吉2)年、南部氏は再び十三湊を攻め、安藤氏は再び十三湊を失い、翌年には柴崎城(しばさきじょう)(旧小泊村・現中泊町)から蝦夷が島へと落ち延びていきました(『新羅之記録(しんらんのきろく)』)。その後も安藤氏は津軽奪回を何度も挑みますが、1453(享徳3)年、安藤義季(よしすえ)が津軽大浦郷(おおうらごう)(旧大浦町・現弘前市)にて自刃し、安藤氏嫡流が断絶してしまいました。 一方、十三湊安藤氏が没落した後、安藤氏の分家、潮潟(うしおがた)安藤師季(もろすえ)が下北半島の田名部湊(たなぶみなと)に擁立されて、南部氏の庇護のもと日本海交易を担うことになりました。しかし、1453(享徳3)年、安藤師季は南部氏の支配を脱して、蝦夷が島へ渡海する事件が起こります。安藤氏の再興に乗り出すこととなりましたが、1456(康正2)年には、再渡海して秋田土崎湊(つちざきみなと)の分家、湊安藤氏(みなとあんどうし)の招きを受けて秋田檜山(ひやま)方面に移り、「檜山安東氏(ひやまあんどうし)」の祖となりました。十三湊奪回こそ成らなかったものの、安藤氏の後継者としての復権を成し遂げました。 その後、戦国時代を経て、土崎湊の湊安東氏と檜山安東氏が一つとなり、近世の秋田氏となっていきました。 安藤氏が去った後の十三湊を南部氏が顧みることはありませんでした。発掘調査では、十三湊が厚い飛砂で港湾部分が埋まってしまった様子が明らかとなってきました。湊が砂で埋まり、港湾としての利用価値が著しく衰退してしまったことが大きな要因と考えられます。こうして安藤氏がいなくなった十三湊は大規模な自然環境の変化もあって、急速に衰退し、もはや住む人が全くいなくなってしまいました。この地に再び、湊町が築かれ、現在の十三集落の基礎となったのは、それからおよそ1世紀の後、江戸時代初め頃のことです。
発掘調査では当時の生活像をすべて描き出すことはできませんが、これまでの膨大な出土品からみても交易を中心に栄え、豊かな生活を送っていたことが想像できます。
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